インタビュー
「株式会社川畑板金」

今回は、宮崎県都城市で昭和43年に創業し、
令和元年50周年を迎えられた株式会社川畑板金の川畑社長にお話しを伺いしました。
株式会社川畑板金は、専門工事業である建築板金の技術で、
建物というお客様の財産とそこですごす方々の生命を守る役割を担っていると考え、
自分たちの持てる技術を社会に還元し、お客様から選ばれる会社であり続けたいと。
専門技術を活かした様々な事業に取り組んでおられる会社です。

代表取締役 川畑 忠行

板金屋の家に生まれて(誕生~学生時代)

では初めに、社長の幼少期から学生時代についてお伺いしたいと思います。

社長は2代目でいらっしゃいますので、板金屋の家に生まれて、物心ついた時にはすでに先代のお父様が社長としてバリバリやっておられたのだと思いますが、子供心に印象に残っている事は何かございますか?

 そうですね、
当時は小さな路地に面した自宅と工場とが繋がっているようなところでしたので、とにかく建築板金(当時はそうだとは認識していませんでしたが)身近にありました。
 父親も母親も視界に入るところで仕事をしていますし、広い工場は私の絶好の遊び場でした。
大人になってから見たらそうでもなかったのですが、子供のころは広く感じました。
 結局そこは道路拡張にかかって無くなってしまったのですが。
その時に移転してきたのが、現在のこの場所です。
もう40年近くになりますね。

 子供のころの思い出で、あぁ板金屋の息子なんだなと思ったのが、板金で膝を切る大怪我をしたことがあるんですよ。
工場も庭も境界のないようなところでしたので、庭に曲げた板金屋根が包んであって、そこを駆け回っていたらザックリ、10センチくらい。
当時小学校3年生か4年生くらいだったと思いますが、今でも傷跡とともに痛かった記憶が鮮明に残っています。
 もう1つ。
ちょうど同じころ、母親が鉄板を曲げる機械で手の指先を2本落とす事故をしたことがありました。
幸い処置が早くて無事に繋がりましたが、昔は曲げるのも切るのも手動でしたから、勢い余って機械が動いてしまったんですね。

今は機械も自動化されて当時ほどの危険はもうありませんが、どれだけ安全面に配慮されていても、危険と隣り合わせであることには変わりありませんね。

社長やお母様が従業員さんにうるさく言う理由がよく分かりました。

 さらに、私が中学校1年生の時に、先代の父親が10メートルくらいの3階建ての足場から落ちてしまいまして、先代はそこから社長業に専念するようになりました。
 当時は建築板金が流行りだした頃で、住み込みの職人さんも7~8名いましたから、松葉杖をついて仕事を取りに行っていたそうです。
 それから25年後、今度は私が屋根から落ちてしまって。
因果なものです。

幼少期の記憶は事故や怪我の事が多いようですが、身近に家業があって。
社長も将来的に家業を継ぐんだと思われていたのでしょうか。

 そうですね、
後々言われるのかなと思ったこともありましたが、当時は実際になるとは思っていませんでした。
 昔は儲からないといけない板金屋さんなのに、なかなか利益が出ない、苦しい切り盛りをして。
浮き沈みもあったでしょうが、やはり大変だったそうなので、親もそのような仕事を息子にはさせない、そのような仕事には就かせなくても良いのではないか、と思っていたそうです。

 内心では継いでほしいと思っていたかも知れませんが。
 いわゆる板金屋の息子にありがちな、アルバイトに駆り出されるとか、無理やり押し付けるとかは、うちではなかったですね。
比較的自由な感じで私もやらせてもらっていました。
 それが今では板金屋を継いでこうなっていますけどね。

期待は薄々感じながらも、特にプレッシャーがあるわけでもなく、学生時代を自由に過ごされ、社会人となり、お勤めになられていたんですね。

 

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