インタビュー
「株式会社川畑板金」

代表取締役 川畑 忠行

板金屋としてのスタート(社会人~川畑板金)

続いて、どのような社会人生活を送られ、どういった経緯で実家に戻ってこられたのかお伺いしたいと思います。

 結局、わたしが学校を出て社会人になる時は、時代はバブルが崩壊して、就職氷河期で。
今思えば、その時すでに経営が悪化していたのだと思います。
 学生時代にも2回ほど、お客様からお金がもらえないとか、元請が飛んだとか、家業が厳しいという話しがありましたから。

会社としては、社長が学生時代にすでに一つの山場を迎えていたのですね。

 その時は、先代の父親と母親で何とか難局を乗り越えて、私は大阪の建築会社で現場監督をしていたのですが、就職して5年ほどした時に「もうやばい」と実家から連絡がありました。
 大学院に行くことにも、遠く離れた大阪で就職することにも反対されなかった親からそんな連絡だったので、これは「相当やばい」んだと思いました。
 当時は現場監督として、意匠的にもこだわった難しい現場を任されている最中で、やりがいもあったのですが。
そこが私の、社会人で最後の現場になってしまいました。

 その現場というのが、英国のリチャード・ロジャースが設計した南山城小学校で、今も残っています。
実はこの建築家とは、大学時代にバックパッカーでヨーロッパを回っていた時に出会っているんです。  彼が設計したポンピドゥー・センターという建物が仏国にありまして、その建物に感動して見に行ったんですけど、まさかその建築家が設計した建物が、社会人最後の現場になるとは、何かしらの運命を感じましたね。  ですから、本当は最後までやり遂げたかったのですが、もう少し、あと数ヶ月、というタイミングで「帰ってきてくれ」と連絡があり、志半ばでしたが、実家に戻ることになりました。

跡継ぎのプレッシャーもなく、就職にも反対されなかった実家からの連絡なので、よっぽどの事だったのだと思います。
社長もそこは薄々感じ取られて、苦渋の判断だったとは思いますが、実家に戻られる決断をされたわけですね。

 勤め先は一部上場企業でしたので、家業を畳んで、給料で借金を返済するという道もありましたが、当時の上司から、後悔するかしないかで判断しなさい、とアドバイスをもらい、最後は自分が後悔しない道として、実家に戻ることにしました。
 勤め先には家業を持っている人も多かったので、いずれこうなることは会社も分かっていたようです。

 戻ってきても、もちろん会社は債務超過の状態で借金もそれなりにありましたが、それよりも根本的に利益を出しにくい体質でした。
 戻ってきてすぐに、明治から続く板金屋さんが立て続けに2件倒産してしまったのですが、当時の板金屋さんの立場としては、うちもそうでしたが、大手ゼネコンの下請け一本とかが多くて、とても利益がだせるような体質ではありませんでした。
それでも、こんな田舎ですから、お付き合いでやらざるを得ない仕事もあって、利益は出ないけど借金は返済しないといけない。
 ということで、実家に戻ってから約10年間、結婚する直前まで無給で働いていました。

ご結婚される直前までというと、社長になられてからも、しばらくの間は無給だった、ということになりますが。

そのあたり、川畑社長の核心に迫っていきたいと思います。

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