今回は、1962年に山口県防府市で創業して以来60年以上、山口県全域・広島県を中心に、大型・有名建築物から身近な建物まで、幅広く屋根・外壁・雨樋工事を手掛けておられる、株式会社秋重板金工業の秋重正幸社長と、先代の正久会長にお越しいただきました。
株式会社秋重板金工業さまは、身近に利用されるスーパーや学校・病院のほか、有名雑誌にも掲載されるような、誰もが知る建築物の専門建設工事を行っておられ、建設工事の監督が指揮者なら、我々専門建設業者は演奏者だと、事業をオーケストラに例えて、社員・協力会社、総勢50名が一丸となって活動されている会社です。
取締役会長 秋重 正久(会長)
代表取締役 秋重 正幸(社長)
初代の創業者から2代目でいらっしゃる会長の時代について
昨年2023年に3代目の正幸社長に代表交代されましたが、まずは、初代の創業者から2代目でいらっしゃる会長の時代についてお聞きしたいと思います。
創業者はおじい様でしたね。
(会長)
じいさんですね、ワシのおやじ、もう亡くなったけどね。
会社を興したのはワシが5歳ごろだったと思う。小学校に入る前だったから、幼稚園の頃だったかな。
では、会長が物心ついた頃にはもう秋重板金、その前身かも知れませんが、会社としてやっておられたという事ですね。
もし当時の思い出で、子供心に印象に残ってる事がありましたら、お聞きしてもよろしいでしょうか。
(会長)
昔は、藁葺が主体だったから、少しは木造の大工さんの仕事もしていたけど、藁葺屋根とか黒の壁格子鉄板をよくはった。プリント合板を貼るとか、夏休み冬休み、日曜日にはよく手伝いに行かされたんよ。
藁葺の屋根の上に上がってね、あの時、アルバイト料は1日500円だったかな。昔ね。
確かラジオ買うのが1万円だったような気がする。1万円稼ぐのに1日500円だから20日働かんといかんわけよ。夏休みまるまる働いて、んでラジオ買った気がする。
当時、お手伝いされてる頃から、子供心に「俺も将来的にこの仕事をするのかな」という気持ちをもたれていたのでしょうか。
(会長)
んーあんまり思ってなかったな。特にどんな仕事をしたいとか思ってなかったんやけどね…
中学か高校の時かな、おやじが元は自分がやった藁葺屋根のお客さんの、家のトタンにペンキを塗ってくれと頼まれたんよ。
それが儲かるんやね。
あの頃、そうだね、たしか15万ぐらいで請け負って1日で終わるんや。1日500円の頃によ。材料代は2万ぐらいだったから、うんぬん入れても10何万の儲けよ。
ワシは商業高校に行ってたんやけど、銀行員の月の給料が10万ぐらいだったろうか。それやったら1日ペンキ塗りに行って汚れてもよ、銀行員になるよりそっちがいいやと。
それでやるようにしたんよ。
1日500円の時代に、こっちのほうが儲かると。
それはもう、夢がありますね。
(会長)
商業高校だったから学校を卒業したら銀行からはひっぱりだこだった。けど、やっぱり板金屋の方が儲かりそうだから、やめたと、職業訓練校に行ったんよ。
先に基礎を覚えないかんだろうと思ってね。
1年半行ったね。
そうすると、学校卒業されて、職業訓練校行かれて、そのまま秋重板金へ入社されたという事ですね。